心の中の『希望の国』をめざして。
★★★★★
希望の国。それは
描くもの、つなぐもの、思い続けるもの
今から数年後の日本、ふたたび大地震が起き
“長島県”で、原発事故が発生。
とある酪農家の一家は、老夫婦は原発20㎞圏内の内側に残り、
若夫婦は避難し、離ればなれとなる
というストーリー。
鬼才といわれる園子温監督が、今なお続く原発問題に
真っ向から斬り込んでいます。
前作『ヒミズ』でも震災が盛り込まれていましたし
原発事故以後、ドキュメンタリーは数多く作られていますが
フィクションでこうも真っ向なのはおそらく初めてとなります。
Twitterをやっていたり、東京(中日)新聞を購読している方なら
どこかで目にしたようなエピソードをいたるところで再確認できるかと思います。
もちろん、初めて目にするような光景も。ドキュメンタリーを観ているような印象を持ったりもしました。
監督が、足で集めてきた結果なのだろうと思います。
「福島の時のこと、覚えてるだろ」
何度か、そのセリフが出てきます。
映画を見終わって、まず思ったのは、
希望の国、というタイトルの意味。
希望の国って、どこにあるんだろうか
このタイトルは、なんて皮肉で、逆説的なんだろうか
いったいどういうことなんだろうか
今や、復興予算の使途をみても、
もはや希望すら持てない国で、どうして?
そう思いながらも、
この命題は、大きい、ということに思い至ります。
こうであってはならないと
心の中には抱えている
“希望”を持って、持ち合って、分かち合って
これからつくっていこう、ということですよね、一歩、一歩。
おそらく。たぶん。
実は個人的に、この映画で一番ショックというか、悔しいと思ったのは、
日本=イギリス=台湾の合作であること でした。
海外での監督の評価を考えれば、当たり前かもしれなかったし、
喜ばしいことではあるのですが、
こういう映画を、日本の資本だけで撮ることが難しい、ということこそ、
根底にある問題そのものなんだろうと思うのです。
『冷たい熱帯魚』や『愛のむき出し』をあれほど評価していながら、
次は原発がテーマだとわかったら、みんないなくなったと
だったかでプロデューサーさんがおっしゃっていました。
クサイものにはふたをしろ なのです。
そういう映画になってもらいたいのです。
試写会の後、「らしくない」「期待はずれ」と
とらえる方がいらしたのですが、
あの若奥さんが避難していた地域がどれぐらいの線量であったにせよ、
わが子の、家族の身を守るために、見に見えないからこそ、 においがないからこそ、
できるだけ体に入れたくない、離れる、選ばない、という行為は
しごく当然のことだろうと思います、特に母たる者なら特に。
ごく当たり前の意識だと、私は思うんです。
そうでもしなくては、今もなお現在進行形で続いているのに、
丸くおさまって終わってしまうのは、違う気がしています。私も。
そうじゃない。
終わってもいない。目途すらもついていない。
そのことを示すには、ああすることが、映画としてできることだろうと
思います。
その部分には触れてくれるな、利用するな、という考えは確かにあるでしょう。
でも、それでも表現しなければならない
伝えていかなくてはならない という、監督の覚悟のような意思を、
一歩、一歩、ゆくしかないのです。それでも、なお。
↓まさに半ドキュメンタリー。
↓染谷君は、きっと来ると思ってた。
・Twitterでも時々つぶやいています @uereiy twilog
・試写会や来日記者会見の感想もちらほら。Facebookページにも「いいね!」をいただけるとうれしいですm(_ _)m
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