『くちづけ』で泣いた、その後には?
くちづけ
★★★☆☆
観るものに光を与える
ファンタジーであってほしかった
唐突ですが、人には物語が必要だと思っています。
人が人生をより豊かに生きていくためには。
深い喪失を感じたとき、迷いが生じたとき、
今の現実からちょっとだけ抜け出したいとき、
体験記や闘病記の類は特にそうだと思いますが、
ある人(人たち)と、一時的に人生を共有して、
何らかの希望を得ようとして、何かを期待して
人は物語を読んだり、時には映画を観たり…。
物語とは、人生の道筋に何らかの光と実りの雨を与えるもの。
そうあって欲しいと思って、私は映画を見ていますし、
そうした物語の持つパワーが、結果的に
癒やしや、カタルシス(感情の浄化)につながっていると信じています。
で、こちらの物語です。
貫地谷しほりも竹中直人も好きな俳優で、親子役、
しおりちゃんが知的障碍の役を熱演、
しかも橋本愛ちゃんも出ているということで、ちょっと期待して観ました。
すでに解散している劇団「東京セレソンデラックス」の舞台を映画化。
脚本を書いたのは、その劇団主催の俳優、宅間孝行。
本作でも“うーやん”という知的障碍のある男性を好演されていました。
舞台は未見です。
いまの日本が抱える知的障碍や、
その他の障碍を持つ方たちを取り巻く現実を、
問題提起し、風刺しているとはいえ、
率直にいうと、あんまり好きになれませんでした。
泣いた、ことは泣いた。泣けました。
自分がいるから、姉の結婚がダメになったんだと
気づいたときのうーやんには、泣けました。
しかし、流した涙が乾いたときには、心に虚しさと辛さしか残らない。
あとは、何だろう、憤り、でしょうか。老老介護を描いた『愛、アムール』を 究極の愛とはとても思えないのと、
どこか一緒で。
<ネタバレしています>
ラストのシーン、あれはカタルシスだったのかな。
すみません、私はそう思うことができませんでした。
これは私だけなのかもしれませんが、
ですから、二人の幸せそうな姿を見つめながら、
ただ、私にも知的障碍を持ついとこがいますし、

涙を流して心が動いた分、
ひまわり荘を取り巻く環境にすっかり憧れてしまった分、
この悲劇には、残念で残念で仕方がないんです。
何のための福祉?
誰のための自立支援?
何のためのグループホーム?
誰のためのひまわり荘?
映画だからこそ、物語だからこそ、
“それでも、生きていく”ところを、
私は見たかったのだと思います。
『愛、アムール』や『トガニ』のように、
悲劇なら悲劇のまま、思い切りこちらを突き放してほしかった。
もっとも『トガニ』は、映画になったことがきっかけで法律さえ変わりました。
本作に映画で社会を変えろ、啓蒙しろとまでは言わないですけれども、
厳しい現実の後に、大団円のようなラストで
“でも、2人は幸福だったもんね”といった感じで言葉を濁して、
こちらを取り残していくのなら
せめて私は、映画を見終わった後には、
希望を持っていたい、
映画の中に理想に見つけたい。
物語とは、そうであってほしいなと、私は思います。
とっても勝手な言い分ではありますけれども…。
ひまわり荘というグループホームや、國村先生一家、おまわりさんや、町の人たちの、
ものすごく深い理解と愛の中に彼らがいることは、まさに理想でした。
福祉がめざす理想郷でした。
であるならば、そういうファンタジーであるならば、
そう徹してほしかった。
しかし、肝心の主役の親子は、最も悲劇的な形でいなくなってしまいます…。
ですから、二人の幸せそうな姿を見つめながら、
ラストで大団円のようになっている(私はそう受け取ってしまった)のは、
何だかものすごく違和感というか、
どちらかといえば不快感に近いものを感じてしまったのです。
また、舞台からの映画化ですが、舞台的な描き方、
例えばひまわり荘の中だけで物語が進んでいくというワン・シチュエーションは
見ていて、能動的で、やけにバタバタとしていて、
それがとても生きたところもあれば、
一方で、映画になると、ちょっと重苦しく感じてしまった場面も
あったことは事実で。
舞台では役者がすぐそばで演じているライブ感があるからこそ、
その表現により感情が動かされることは確かにありますが、
でも、ライブでは遜色なかったデフォルメや過剰さは、
映画だと観ていてどうも引っかかる部分はあります。
みなみちゃんの発言とか、そこのいじり方とか。
ライブでの舞台では見逃されるというか、そのままスルーできたところも、
映画になると何だか気になってしまう部分が、
受け取る側に出てきてしまうのかな、スクリーンを通してしまうと。
ただ、私にも知的障碍を持ついとこがいますし、
時々メールをくれる鉄キチの青年くんもいます。
そんな同じように障碍を抱える方のご家族には、とても観せられない
と思いました。
ずっと2人きりで来たから、1人きりにはできなかったのはわかります。
小さい頃、辛い目にあったのだし。
一度誰かに頼ってしまったら、頼った相手にものすごい迷惑かかる、と、
思ってしまう、ということも。
しかし、同じ堤監督の『明日の記憶』や、ジェット・リーの『海洋天堂』とは、
根本的に違っていると思うのです。
“それでも、生きていく”という視点がない。
いや、あったのかもしれない。けど、
うーやんたちは、それでも生きていける、のかな。
うーやんや、ひまわり荘の彼らが、彼女たちのいない現実、
グリーフをどう受け止めるのかが、気になって仕方がないのです。
なぜ、2人はいなくなってしまったのか。どうやって説明するのでしょうか。
この辛い出来事をどう、彼らの人生に組み込んでいくのでしょう。
彼らのグリーフはどう癒されるのでしょうか…
それは彼らにとっていつか光となり得るのでしょうか…
ついつい、そんないらぬことまで考えてしまいます。
すみません、考えすぎだとは思います。
でも、福祉の現状を思うなら、
ついつい、『海洋天堂』と比べてしまう私を許してください。
↓ベースが似ているストーリーでもあまりに違うラスト。
↓自立を促す、応援する、ということを思います。
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Healing & Holistic 映画生活


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